私は、歩いている。少し意識して胸をはり、そうして、少しだけ速歩で。
五月の午後。青い空。外を歩くには絶好の日和。
今朝、目が醒めたら、いきなりの頭痛。昨夜、賢司としたたか飲んだものね。賢司、時に涙ぐみなどしながら、何やら、しきりに話していた。うう、思い出せない。賢司の話だってのに、それが思い出せないなんて、ちょっとなさけないかな。
賢司の目に涙というのも、かなり気にかかるけど、確か別れ話ではなかった……ような気がする。
あれこれ考えるうちに、ベッドの中で過ぎて行く時間。さすがに、昼近くになって、私は外に出かけた。別にあてはないし、おまけにまだ食欲もないし、とりあえず、歩くだけ。
歩いていると妙に落ち着いてくる。そうね、最初の片恋の頃。たまらない思いが、歩いているうちに、妙に穏やかに変わっていくのがわかった。歩いているだけで忘れられるなんて、私も随分と薄情な女なんではなかろうかと、少し悩んだりもしたけれど、それ以来、何かと歩きまわるのが、私の習慣になっている。
気持ちが落ち着いてきたためか、ただ単に酔いがさめてきたのか、少しずつ、昨夜の賢司の話が思い出される。そう、なんでも初恋の人にばったり出会ったとか。
でも、私も賢司も三十前の男と女。それだけの話なら、賢司が涙ぐむことなんかないわね。それとも「だから、別れよう」なんて話になったのかしらね。肝心なところが思い出せない。いいや、もう少し歩いていれば、また思い出すでしょう。
あいかわらず、少し速歩。気持ちが上気してくるのがわかる。そうね、他ならぬ賢司の話だもの、しっかり思い出してあげましょう。
思い出してしまった。ショッキングな告白。「ずっと待ってる」って言ってくれた彼女が、しばらく(でも、二年とか三年とかって、「しばらく」じゃないと思う!)放っておいたら、人の奥さんになっていたとか。
「それじゃ私はいったいなんなのよ!」うん、私もしっかり賢司にせまったような気がしてきた。
賢司、そんなに悲しかったの? 好きだったのね、その娘のこと。私より? ちょっとひどいんじゃない、放っておくなんて。
はっきりさせておかなくちゃね。賢司、私が頭に来てるのはね、あなたに、私よりも好きな娘がいたからじゃないの。そんなに大好きな娘放っといて、何時までも「自分の恋人」なんて思っている男、私、大嫌い。
何もかもがショック。賢司は私の理想から外れてしまった。一夜にして。そして、私は、私自身にショックを受ける。「人間なんて欠点も間違いもあるものだよ」ってことに今さら気づいて、ショックを受けている私に。
賢司、結構いい人ね、なんて思っていたのに。何と言っても、私が、二十八の女の子が、「今、ファンタジーに凝っています。」って言ったのをバカにもせずに受け止めてくれた人。そう、ほとんど唯一の人。
賢司は、私の「立原えりか」論が、ひどくお気に入りだった。
−−「もっとちがうものになりたい。もう少し幸福になりたい」とのぞんだら、もっとちがう、もっと幸福なものを、その手で創らなければなりません。−−
立原えりかの言葉を熱っぽく話す私は、賢司の前で、泣いていた。
そう、賢司だって、『すすき』に涙してくれた。きっと『もくせい』の少女を抱きしめてくれたのだと思う。
「まだ何も書いてないのよ。」いつも私は、前置きをした。私の言葉、「いつか、えりかさんを越えたい。」はるかに、追いつきさえしない私の言葉を、賢司は、聞いていてくれた。
そして、別役実の抽象。『≪青いオーロラ号≫の冒険』のはかなさ。私の見つめる青い世界を、賢司は感じてくれただろう。
そうね、だから私、思っていたのに。いつか賢司のために、とびっきりのファンタジー書いてあげようって。
賢司のためのファンタジー。賢司のための情熱。私を支えてくれていたものが、どこかに行ってしまった。不思議ね、それでも私、歩き続けている。
休まなきゃ。すみっこ。人目につかない場所でうずくまっていたい。賢司。だめね、今度ばかりは、相談するわけにいかない。
それでも歩き続ける私。今、うずくまってしまったら、もう二度と歩けないだろうな。妙に確信してしまう。不安。恐怖。私、歩いていたいの。
本当はわかっているのにね。私の思いは賢司のためだけじゃないの。私の恋心。賢司への恋心。これは、これだけは、賢司にあげる。そう、あとは何もあげないの。私って、こう見えても欲張りなんだから。
「私、賢司がいなくったって、生きてゆける。」そう言ってしまいたかった。そして、そう言ってしまうことが、怖かった。
賢司が、私にとって、本当にかけがえのないものなら、どんなに良かったかしら。そうしたら私、死ぬまで賢司を追いかけただろう。でも、だめ。判ってしまったんだもの。賢司にはあげない、私のすべて。
そうじゃない、そうじゃない、そうじゃない。もうひとりの私が叫ぶ。賢司、私の、かけがえのない人。
もしも、賢司が死んでしまったら、私、一日を泣きながら過ごすの。そして、本当に、賢司の思い出をつづる。賢司のための、とっておきのファンタジー。
考えながら、私、一方ではひどくさめていた。賢司の一生なんて、私にとっては、思い出の一つでしかないの? 私の一生も、賢司にとっては、ただの思い出? ことによると賢司、思い出してもくれないかもしれない。
−−イチゴを捜そうじゃありませんか
今はイチゴの季節じゃありませんわ
でも、
まもなくその季節が来るでしょう−−
幼い日のひとこま。忘れてしまった思い出と、賢司の一生と。皮肉ね、私の中で同じ重さしか持たないとしたら。
風! 髪のばしててよかった。
そう、やっぱり私、賢司がいなくたって生きてゆける。でも、賢司、好きよ、今でも。それでいいんだわ、きっと。恋をすると人は弱くなる? うそね、弱いふりをしているだけ。「私のかけがえのない人。」誰かをそう呼びたくて。
賢司は、私の話を聞いてくれた。ファンタジー、私の情熱。賢司は、私の情熱を受けとめてくれただろうか。
私、賢司が好き。私、ファンタジーが好き。
私は、ファンタジーが好き。そう、誰のためにでもなく、何か役に立つわけでもなく、私の正直な感情として。そうね、少しばかり歪んでたわね、私。
誰かがいうの。いい歳して、いつまでも夢の世界やってちゃだめよ。そうね、反論しなくちゃ。一番最初はね、「本物のファンタジー、読んだことがおありですか?」 妖精が舞い、花が咲く美しい世界? 悪いけど、そんな安直なファンタジーなんて現存してません。
自分が読んでもいないものを、本気で批判する人の多いのには、本当にまいってしまう。もし、ファンタジー読んで、それでも、安直な夢の世界とか言うのなら、悪いけど私、その人の感性、信じない。
賢司は、聞いてくれたものね。
わかってしまった、私の歪み。私の立原えりか論というのは、もちろん、私の感じた通りのことではあるのだけど、その実、言い訳だったのだ。「ね、ファンタジーっていいかげんなものじゃないでしょ。私がファンタジー好きって、おかしなことじゃないでしょ。」そう言って、自分自身の正当を主張するための、言い訳。
最初は、「世間の目」そうして、賢司と知り合ってからは、賢司へ。私だって信じていたい、そうじゃないの、私は、自分の感じたたファンタジーのすばらしさを、誰かに話したかっただけ、そんな風に……。
いずれにしても、私は、お気に入りの本をかかえて、ひとり涙ぐむだけの少女ではなくなっていた。
思い起こすと、私はいつだって少数派で、しかも女だった。二十八にもなって、ファンタジーやっている人間は、周囲にいなかったから、私は言い訳を考えなければならなかった。「よっぽど気がむかないと、テレビなんて見ませんよ。」そう言う度に、私は言い訳をした。そう、おまけに私は、女なので、「変わってるね」と、そう言われることだけは、どうしても避けなければならなかった。
賢司に出会って、ああ、この人の前でなら、私は、あれこれと言い訳を考えなくていいんだと、本当に思った。賢司の前では、私は、私のままでいられる。
うそ、私は、別の言い訳を考えなければならなかった。「ね、私は賢司にふさわしい女でしょう?」
他人に対して持っていた、「ファンタジー好きです」の言い訳。とりあえず、これは良しとしよう。たとえ賢司がいなくたって、私が生きているかぎり、そして、他人の前ではそのままの私なんか見せられないとしたら、これは、私のみを守るための私の武器。
賢司のために用意した言い訳。私、賢司にとってふさわしい女だとか、賢司が私にとってふさわしいとか、一度として考えてみたこともないのに、私の造りあげた私、賢司にふさわしい女。
ちょっとくやしい。賢司へささげた私の情熱? そうね、「私のこと、賢司のそばにいさせて欲しい、賢司のそば追い出されたら、私、また、みんなに言い訳して生きていかなきゃならないから。」
だから、私が、実のところ賢司のことを何も知らないというのは、ある程度当然のことだったの。賢司、私の防波堤。他人の言葉を止めてくれれば何だって良かった……のかな?
私は、歩いている。少し意識して胸をはり、そうして、少しだけ速歩で。
道が大きく湾曲し、舗装が終わる。このあたりから、人通りはうんと少なくなる。
考えてみたら、私、ずっと言い訳しながら生きてきたのね。女だったから、私が?
公平に言って、私は、いつも少数派だったから言い訳する機会は多かったけど、それでも、「個人の趣味ですから。」という一言で片付けてしまえなかったのは、本当は、私が、「かわいい女」でいたせいかも知れない。
男が欲しい。うん、これはひどいニュアンスね。でも、そうだったの。私、かよわい女の子だし、誰かが手を引いてくれなきゃ、どこへも行けないの。私にふさわしい男が、私にふさわしいことを、何か考えてくれる。男が手を引いてくれるので、私は黙って「彼についてゆく」の。そうして、時おり立ち止まっては、私を抱きしめて、「だいじょうぶ?」って聞いてくれる。私は、ちょっとだけ甘えて言うの「だいじょうぶ、あなたと一緒だもの。」
ふん、とんだ茶番ね。ずいぶんと情けない生き方をして来たものだわ、私。
私、今歩いている、うん、これは具体的な話として。私は、自分で歩いている時くらいは、自由に歩いていると思っていた。私のお気に入りの道順。誰に決めてもらった訳でもなく(ささいなことではあるけれど)自分で決めた、道順。皮肉ね。これって、誰かが作った道の上。そう、歩く人が多ければ、そこは道になってしまう。
誰かの作った道を歩くだけの自由。道のない場所を歩くことが本当の自由? でも、それ言っちゃったら、しょせん「陸の上を歩いてるだけの自由」だし、「地球の上を歩いているだけの自由」よ。
そう、問題は、「知ってしまった」ってことよ。つい先刻まで、私は「人が作ってくれた道以外にも、人の歩けることろがある。」なんて知らなかった。そう、今までの私の人生は、他人の考える「かわいい女」以外の場所でだって生きられるなんて考えてもみなかった。
私は、立ち止まる、今。道は、やっと人二人すれちがえるくらい。左右には、茂みが、壁を作る。ああ、動悸が速い。私はひとりごちる。「私が、今、道かはずれて、茂みの中へ入って行っても、それは私の人生には、何の役にも立たないの。」
勿論。一本道をはずれて、茂みの中をゆく。他人の作った「かわいい女」の道を外れて、「自分の道」を歩いてゆく。それは、全然別のこと。だからって、今、このまま行かなきゃならないってことはない。
好奇心。「かわいい女」に押し込められていった私に、たった一つだけ残っていた、私。「役に立たなくたって、自分の好きにするってのは、悪いことじゃないわ。」そうね、ありがとう、私。そう、今、私が茂みの中に消えても、別に困る人はいまい。
一度越えてしまうと、茂みは驚く程、あっけなく終わってしまい、私は、見たことのない道に出た。そうして、立ちすくんでしまった。少し下りながら、単調に伸びる、道。その先に見える、青い点のように輝く湖。木々に囲まれた湖。私の目は釘付けになってしまった。
やがて、ふらふらと、少しして、今度は、半ば走るように湖へと向かった。
湖。うん、貯水池ってところかしらね。透き通るような青い点が、今は、深い緑に変わる。ねそべってしまう。誰もいないし、ううん、誰かいたっていいわ。
賢司の彼女さん。やっぱり間違ってる。ううん、賢司のこと捨てたのがっていうんじゃないの。やっぱり彼女も「かわいい女」だったのね。彼女は、きっと、「私のことどう思ってるの。」と賢司にせまるような「はしたない」事はできなかったのだし、かといって「好きな人がいるから、他の人とは結婚しません。」なんていう「非常識」なこともできなかったのね。
ものすごく意地悪な考え方をすれば、彼女が賢司のこと好きだったかどうかもわかんないわね。私だって、先刻までの私だったら、うなずいてしまうかもしれない、「いつまでも待っていてくれるね。」賢司にそう言われたら。そう、「かわいい女」には、黙ってうなずくしぐさが良く似合う。
風が渡って行く。快い風。
いつもの道を離れたら、そこに湖ひとつ、「かわいい女」を外れたら、いったい何があるのでしょう。
判ってしまった。「かわいい女」じゃなくたって、生きてゆける。うん、違うな、私、もうこれ以上「かわいい女」としてなんか、生きてゆけない。「かわいい女」に押し込められて、結局、誰かの思い出になるだけなんて、私、がまん出来ない。
判っただけじゃ何も変わらない……けど、そう、これから。判らなければ、そもそも、変えようがないわ。
風。そうね、髪、切ろう。賢司への失恋? 自分との離別? 残念でした、単なる趣味です。そうして、耳に穴あけるの。「親からもらった大切な身体に傷を付けるなんて……。」 ううん、そんな言葉、私にはもう必要ない。
そうして、いつの日か、誰かを、それは賢司かもしれないし、他の人かもしれないけれど、本当に「わたしとあなた」として愛することが出来たら、青い点の湖にもまがう程の小さなサファイヤを飾ってあげよう。
賢司、私、いまのところあなたが好き。そうね、ひとことお礼言っとくのもいいでしょう。
「ね、賢司、ここにいてくれて、あなた、本当にありがとう。」
Fin.