開演。
やたらに派手なサックスのソロでおれ達のライブは始まった。それを包み込むキーボード。そしてさらにビートの効いたドラムが加わる。これがおれ達のバンド。
「ライブ・アライブ」という。今夜は結成五周年ということで初めてのライブ。
メンバーは三人。サックスソロを取っているのが夕祈。リードボーカルもやる。キーボード担当、ゆかり。こちらもボーカルを兼ねる。最後にドラム担当のおれは賢次という。自分の才能は知っているつもりなのでおれはボーカルはやらない。
初ライブの最初の曲ってのは、それなりに力を入れるからな。今演奏している曲、おれ達のライブの最初の曲は、『ライブ・アライブ』という。バンドと同名。メンバーが揃って、おれもちゃんとバンド活動やるか……ってんで、作ったいわばテーマ曲。もっとも、おれが手間取ったせいで、できあがったのはつい最近だが。
プラハ――馴染みの楽器屋――で、キーボード抱えたゆかりに出会ったのがそもそもの始まり。おれがプラハに着くと親父が何やら女の子相手に話し込んでいた。
「おい、賢次。良いところに来たじゃないか」
「なんだって? 女の子でも紹介してくれるってかい」
「そのとおり」
「親父さん、冗談はよせよ」
「いやなに、こちらのお嬢さんがドラマーをひとり見繕って欲しいそうだ」
まったく、「お嬢さん」ってがらかい、この親父が。
「おれはね、ドラムやめたの」
「明日、裏町のバンドコンテストがあるだろう」
「そうらしいな」
「で、どうしても出たいんだそうだ。ひとりじゃバンドにならんだろう」
「冗談じゃないって、なんだよ、明日ってのは」
唐突に、ゆかりが割ってはいる。
「お願いします。どうしてもやりたいの」
「だいたいな、あんた、『明日』ってのはなんだよ。バンドやるならやるで勝手だが、コンテストの前日にメンバーあさるやつがあるか」
「だって、あなた、来てくれなかった」
「なんだ?」
「おいおい、えっと、ゆかりちゃんか、ちょっとそりゃ唐突ってもんだ。賢次も困ってるじゃないか」
笑いながら親父が説明してくれた。なんでも、ゆかりがプラハに来たのは一週間前なんだそうだ。バンドコンテストの申し込みに来たのはいいが、ドラムやってくれる人がいなくて困っている。誰かいないだろうか……ってな話。親父さんも親父さんで、それならってんでおれの名前を出したらしい。
「凄腕の」なんていう馬鹿な宣伝文句までくっつけて。そういえばおれも、この一週間プラハとはご無沙汰だったものな。
「もうダメかと思っていたのに、前の日に会えるなんてついてるわ。ね、お願い」
「会えなかったものと思ってくれ」
「お願い」
おれとしても女の子に泣きつかれるのは嫌でもないから、そのうちに、「じゃ、ちょっとやってみな」なんていう返事をしてしまった。
さっそくキーボードをとりだして、ゆかりが腕前を披露する。正直なところおれはちょっとびっくりした。
「バンドやりたい」なんてドラマーもなしでうろうろしているから、そこらあたりの素人――ってまあ、おれも素人には違いないが――かと思えば、結構な腕前じゃないいか。女の子に「お願い」なんて言われる機会も二度とないかもしれないし、まあOKしてやるか。
翌朝「通し」を一度やっただけで本番。誉められた出来ではないが、参加バンドの中で一番下手というほどひどくはなかっただろう。この時は未成年のゆかりに一応の敬意を表して軽くコーヒーで打ち上げ。もっとも、おれもまだ十九だったか。
その後も練習なんてものはしなかった。手頃なコンテストを見つけてきてはゆかりはおれに電話をよこした。ぶっつけ本番のコンテストが何度か続いて、三年目の「裏町バンドコンテスト」で、おれは夕祈に出会った。
二年前。夕祈はどこだかのバンドのそれも助っ人でコンテストに参加していた。大したバンドではなかったけれど、夕祈の歌におれは驚いた。一緒にいたゆかりの言うには、夕祈の歌を聞いておれは「飛び起きた」らしい。
コンテストが終わって、おれはすぐに夕祈と交渉した。
「えっと、夕祈……さんですよね」
「え、はい、そうですけど」
「唐突だけど……おれ達と一緒にバンドやりません?」
「はあ?」
「あ、おれたち『ライブ・アライブ』ってバンドやってます。」
「あ、コンテストに出てた人ね。えっと、こちらの方がキーボードの?」
「そうよ」
「良いキーボードだったわ。あのキーボードバックで歌ってみたいなって思ったわよ」
「話が早いや。うちでボーカルやろうって気になりません?」
「な、なによ、ボーカルならあたし、やってるわよ」
「そうよね、ボーカルも立派だったわ。うらやましいくらいしっかりした発声のボーカルね」
「そうよ、だから、あたしの他にボーカルなんかいらないって」
「でもな、二人だぜ、二人。ちょっと足りないと思わないか、編曲するのに」
「そりゃそうだけど、まあ、賢次歌ってくれないし、足りないと言えば足りないのだけど、でもボーカルはいらないわよ」
「夕祈さん、サックスも吹いてましたよね」
「ええ、まあ」
「どうだ、サックス追加ってのは」
「それは、そうね、サックスあればうれしいけど、でも……」
「じゃ、とりあえずサックスで入ってもらおう。たまには、ボーカル二人あったほうが良いってこともあるだろう」
「そうか、まあ、いいけど」
「夕祈さんは良いでしょう、それで」
「それでって、急に」
「ゆかりのキーボードでサックス吹いてみたいと思うでしょう」
「それはそうだけど」
「じゃ、きまりってことで、一度来てみてよ」
「賢次さんね、一度来てみてって、練習に来てくれないじゃない」
「わ、わかった。これからちゃんと練習する。おれも心入れ変えてバンドやる。だからゆかりも機嫌なおしてくれ」
「べつに、直さなきゃならないような機嫌はないけど、まあ、いいわ、とりあえずよろしく」
「わたしこそ、よろしくお願いしますね」
というわけで、おれ達三人が揃ったわけだ。おれは思った。三人揃えば何かできる。ゆかりはひどく不機嫌だが、ダメならダメで良い。二人でちまちまやってるよりは、いくらかましってもんだろう。
あたし、ゆかり。二曲目は、あたしの作詞・作曲でお届けします……なんてね。
賢次さんは、あたしのこと「ボーカル」って紹介したけど、本当はちょっと違うの。どちらかというと、最近はスキャットの方が多いかな。ちゃんとした言葉のある歌を歌うんじゃなくて、よく、「アー・アー・アー」とか「ルー」とか「ダバダバダ〜」とかやっているあれ。ボーカルと言えばいえるかもね。
ステージの上、静かに歌い始める。無伴奏。
「アー」という控えめの声。いい調子。
ちょっと説明くどくなるけど、あたし、廃虚に立つ自分をイメージしていた。誰もいない荒野。風だけが静かに渡ってゆく。
賢次さんのドラムも、この曲ではワイヤーブラシにしてもらった。これって、「シャン」っていうとってもソフトな音がする。
風の音が聞こえる……かも。
《君のまわりには、いつだって風が吹いていた》
こう歌うのは夕祈さん。歌うっていうよりは朗読。キーボードの伴奏も、サックスもなし。声だけで、それも、静かに流れる、リズミカルなんてのとはほど遠い、静かなスキャットでまとめてみたかった。そう、廃虚を流れる風。何百年か前には確かにそこにあった街、そして人々の記憶。そして微かで、とぎれとぎれの朗読。それは、空耳なのかもしれない。
《君は波の音を聞いた》
静かなささやき。それでいて、何をしゃべっているかはっきりわかる朗読。やっと見つけた。あたしが書きたかった曲、『地球の記憶』は、夕祈さんのささやき声がなければかけなかった。
夕祈さん加入してから、あたし、作詞やめてた。あたしの書いた詩を夕祈さんが歌うのかと思うと、何となく抵抗があってね。なもんで、賢次さん作詞して、あたし作曲ってパターン。賢次さんは約束通り、バンドに力入れてくれて、作詞もしてくれた。意外だったけどね、賢次さんに作詞の才能あるなんて。
きっかけは『ライブ・アライブ』。そう、さっき歌ってた曲。賢次さんが詩を持ってきたのは、何カ月か前のことだった。
「ゆかり、これ頼むわ」
「なに? 『ライブ・アライブ』って、バンドの名前じゃない。テーマソングでも作るつもり?」
「そういうこと。だから、まあ、しっかり作曲頼むわ」
「ふうん、やたらに威勢のいい曲ね」
「夕祈さんが入ってくれただろう。あと、ゆかりとおれと。三人いれば結構なことができそうな気がしてな、作詞を始めたんだ。いままでかかっちまったけだな」
あたし、賢次さんの詩、結局無視した。それからまたしばらくして、夕祈さんが声かけてくるまでは。
「ゆかちゃん、あの、詩を見せてくれない? 『ライブ・アライブ』の?」
「なによ、あたしが賢次さんに作曲頼まれたんだからね」
「あ、それはわかってる。だから、見せてくれるだけで良いの」
「見てどうしようっての?」
「あ、わたしも、ちょっと作曲してみたくなって。あ、別にバンドで演奏しようと言う訳じゃないの。自分で作曲してみたいなと思って。バンドのはゆかちゃんが作曲するんだものね」
「ふうん、夕祈さんて作曲したことあるんだ」
「あ、あの、ちょっとだけど、以前」
今でも、この時のあたし、嫌なやつだったなと思う。あたしはあっさりと詩を夕祈さんに渡した。そう、彼女を辱めるために。
「わかったわ、じゃ、これ、『ライブ・アライブ』」
「ありがとう。すぐお返しするわ」
「じゃ、夕祈さん。曲できたら聞かせてね」
もちろん、あたしも作曲する。教えてあげる。あなたとの違いを。本当に使える作曲ってのが、どういうものなのかを。
一週間ほどして、夕祈さんは自分の曲を持ってきた。その頃には、あたし、自分の作曲終わってた。
「ゆかちゃん、ちょっと見て欲しいんだけど」
「できたんですか。ちょっと弾いてみましょうか」
「おねがい」
夕祈さんの差し出した楽譜を一瞥。なに? 所々抜けてるのは。
「あ、でね、ところどころなんだけど、楽譜に書けないところがあるの」
「採譜できないんですか?」
「うん、わたしは楽譜を書くのってそんなにうまくないから」
「そんなんで作曲やってたんですか?」
「ボーカルの時は歌えればどうにかなったし、サックスの時はごまかしてた」
「なんて……」
「それでね、あの、お願いなんだけど……採譜をね、手伝って欲しいの」
「採譜を? ま、まあいいですけど……」
嫌みだな。自分でもわかってた。嫌そうな顔して、それでもつきあって、結局これだけのものなの、って夕祈さんに言うの。
あたしキーボード弾いて、夕祈さん歌って、楽譜が抜けてるところで立ち止まって、夕祈さんの歌通りのおたまじゃくし書き込んで。まあ、そんなにひどいって曲じゃないわね。でもまだまだ。こんなものじゃね。
《やっと会えたね私たち》
彼女がそのフレーズを歌ったとき、あたし……、あたしの指、動かなくなった。夕祈さんがけげんそうな顔で見ている。
「あの、そんなにひどい?」
「え、え、あ、そうじゃなくて、あの」
やだ、ちょっとした混乱。なんで、「やっと会えたね私たち」で取り乱さなきゃならないの。
「あ、ごめん、夕祈さん、ちょっと楽譜、その、一晩貸してくれない?」
「ええ、いいけど、どうしたの? ちょっと変よ」
「あ、ちょっと気になることがあって、あ、明日返すわ」
あたし、逃げるように夕祈さんの前から逃げ出した。あのフレーズささやかれたらどうしようもないわ。
「やっと会えたね私たち」か、まさにその通り。あたし、自分でも作曲して、このフレーズには結構悩んだから、良くわかった。このフレーズはささやくところだったんだ。あたしの作曲では、このフレーズ、絶叫にしてた。
テープレコーダー相手に夕祈さんの作曲を歌ってみる。どこにでもありそうな曲の展開で、気にとめるようなもんじゃないわ。でも、「やっと会えたね」のフレーズをささやくと、これが実に良いの。ピリッと効いてる。ただね、良くわかった。あたしには歌えない。ううん、歌ってるつもりなんだけど、テープ聞いてみると、「やっと会えたね」だけモゴモゴ声になってしまう。耳について離れない。夕祈さんの、本当に小さくて、消えそうなささやき声なのに、ちゃんと言葉が響いてくる。
ああ、いつか賢次さん言ってた。
「ボーカルやるやつが作曲するとな、自分の歌える曲しか書けないんだ」あたし、自分でも知ってたんだな、本当は。ささやき、小声。そんなものが歌えないってのを。だから、あたし、ささやくかわりに絶叫でごまかしてたんだわ。
あたし、夕祈さんのささやき声のファンになってしまった。いいな、この声なら、あたしのスキャットにきれいに乗ってくれそうな気がする。
翌日、夕祈さんに楽譜返して、歌ってもらった。伴奏入れてみて、スキャットかぶせてみて、ああ、なんかいけそうね。
その後、発声練習にもつきあってもらった。
「やっぱり、ゆかちゃんの声の方がきれいよね」
「え?」
「うん? だって、ゆかちゃんって、どこで覚えたの? 発声の基礎ってしっかりしてるもの。声も通るし。本当に聞こえるか聞こえないかのスキャットなんて、絶品だわ」
正直言って、これにはちょっとカチンときた。あたし、「ささやきコンプレックス」にどっぷり浸かってるってのに、「小さな声の発声が良い」なんて、嫌みね。
「そうだ、自分でも聞いてみたら?」
嫌だなと思いつつ、夕祈さんに押されて、テープレコーダー持ち出して、録音大会。ひょっとして夕祈さん、あたしの「ささやきコンプレックス」気づいていて?
それで、テープ聞かせて、おまけに、あたしのこと誉めて見せたりしたら、承知しない。あたしだって声の善し悪しくらいわかる。
が、自分でもびっくり。あたしの小声って案外良いんだ。
「でも変よ、あたしね、夕祈さんの歌、歌えなかったんだよ。『やっと会えたね私たち』ってとこ」
「歌えないってそんな」
「じゃ、聞いてみてよ」
ちょっと恥ずかしかったけど、歌ってみる。あは、夕祈さんってば呆れてる。
「意外だったわ、ゆかちゃんて、ささやくとモゴモゴ声なのね」
「うん」
「でも、声はすごくきれいだし、通りは良いし、わたしの声なんて、そもそも通らないもの」
あ、そう言えば聞いたことある。
「発声」と「発音」って別のことなんだって。声の質だとか、通りが良いとか悪いとか――それは発声の問題で、言葉がはっきりしているかどうか――それが発音ってもんで。発声は抜群で発音がからきしのあたしと、発音がばっちりの夕祈さんと、本当、やっと会えたね。
賢次さんってば、ここまで考えて作詞した訳じゃないよね。まあ、これで夕祈さんに全敗ならショックも大きいけど、一勝一敗だものね、まあいいか。それに、夕祈さんいれば、本当に「結構なこと」ができる。賢次さんの言ってた通りだわ。
夕祈さんの作曲には不満なところもあって、最終的には、あたしがかなり手を入れた。夕祈さんのリードボーカルは決まり。あたしの楽譜は没。初めての没稿かな。
夕祈さんの発声もそんなにひどくはない。マイクで充分カバーできる。それに、あたしなら、リードボーカルやるより、スキャットでのっけたほうがきれいだな。ああ、あたしも、曲書きたくなってきた。頭の中をささやき声のリードボーカルと、「地平線の向こうから聞こえてくるような」スキャットが渦巻いている。あは、地平線の向こうって言ってくれたのは、夕祈さん。
どう言ったら良いんだろう。夕祈さんに負けてとても気が楽になった。負けるってのも変だけどね。他の誰かが、それも身近にいる人が、あたしよりうまいなんて嫌だった。あたしって、人まねばかりしてきたのかもね。いろんな人に負けたくなくて。でも、もうやめ。夕祈さんの「ささやき」は、そこにあるだけで素晴らしいわ。この人になら、あたし、リードボーカルまかせられる。そして、あたし、スキャットやろう。
やっとわかった。『地球の記憶』。あたし書きたかったの。荒野と、渡ってゆく風。誰もいないのに、昔そこに街があって、人々がいたことが、なぜだかわかってしまう。そういった歌。ああ、百年がたって、あたしや、夕祈さんのことを何も知らない人々が、やっぱりあたしたちのことを、昔誰かいたんだなって思ってくれるとしたら素敵。
だから夕祈さん、一緒に歌おう。あたしね、『地球の記憶』にどうしても詩がつけられないで困っていた。いいんだ、あたしのスキャットが一番のお似合い。そして、夕祈さんのささやき声は、またとないスパイス。
《今は砂漠になった廃虚で、君に恋文をつづろう》
夕祈さんの台詞が終わる。あとは、微かな声から本当に消えるまでのなだらかなスキャット。十六小節。一分ちょっと息継ぎなしで。聞いてね、あたしの、思い切りの、そして、微かなスキャット。あたしのベスト・ソング。夕祈さん、あなたがいてくれたから歌えるの。
夕祈です、お見知りおきを。アンコールは、わたしがお届けします。
ライブの前日になって、新曲がやりたいな……なんて言ったら、みなさんパニックだった。無理もないわね。それでも、「じゃあ、書いてみな」なんていう話になるのはすてきだと思う。ちょうど本番の前で、そろって賢次のところに泊まり込み状態だったし、わたしはほとんど徹夜で書き上げた。
その夜、夜中あたりに、ちょっと疲れたからというので、、その辺をぶらぶらしてみる。窓を開けて外を見ているゆかちゃんをみつけて、ちょっと驚いた。
「ゆかちゃん、どうしたの?」
「あ、夕祈さん。眠れなくて」
「大丈夫? 明日」
「平気、いつものことだもの。あたしね、コンサートの前日って、眠れないの」
「意外ね。ゆかちゃんて、何やらしてもうまいでしょ。キーボードだってボーカルだってうらやましいくらいだし。コンサートくらい何でもないかと思ってた」
「うん、本当は恐い。でも、コンサートやりたいのよね。誰かの前で演奏したい。『地球の記憶』なんて、あれだけ力入れたんだから、やっぱり聞いて欲しい」
「そう思うわ」
「それでいて、あれだけやって、それでもできなかったらと思うとね、恐い」
「ゆかちゃんもそうだったの」
「もちろん」
「それで、星でもみながら気持ちを落ちつけてたっていうところ?」
「あ、それ、ちょっと違う。いいの、別に恐くても。恐がってもコンサートなくならないしね。恐くて眠れないから、ああ、恐くて眠れないんだなって、自分で呆れて、まあ、いいでしょう、眠れないんだから夜明かしすれば」
ゆかちゃんらしいわ。何となくそう思う。恐いんだから恐がって、眠れなければ、星を見る……か、うらやましいな、ちょっと。
そう。言葉にしてみたのは初めてだけど、ゆかちゃん、わたしはずっと前からあなたに教わってきたような気がする。
「悲しいときには、まず泣きましょう。あとはそれからよね」そう言ってね。
夜明け近くになってやっと曲を仕上げる事ができた。タイトル未定でね。メロディーはいつも頭の中でなっていたし、あと、本番ではゆかちゃんが結構アドリブで決めてくれることをあてにして。これなら一晩でだって何とか作れるものだわ。
もう朝方だったし、そんなに眠くもなかったから、ゆかちゃんにつきあって星でも見るのも良いかなと思ったけど、なんだかひとりになりたかった。部屋の中は賢次がいるだろうし……うん、やっぱり遠慮した方がいいわね。いいわ、廊下で寝よ。
わたしは廊下の端に座る。賢次のドラムセットが置いてあって、ちょっと寄り掛かってみる。そのまま片膝抱いて、目を閉じる。ドラムセットに寄り掛かったりして、賢次に見つかったら怒られるかしら。
わたしの曲。インスツルメンツ――歌詞のついていない音楽。わたしはサックス・ソロで、ゆかちゃんはスキャットとキーボードで。退屈なスキャットだって、ゆかちゃんおこるかもしれない。ううん、多分わかってくれるわ。最初から最後まで同じ調子の同じフレーズなんだけど、それが、わたしの曲の背骨だものね。ゆかちゃんのスキャットがしっかりしてくれるから、わたしは思い切りのソロを演奏できる。それでいて、キーボードパートはアドリブの嵐。ゆかちゃんの台詞が思い浮かぶわ。
「夕祈さん、これじゃいじめだよぉ」
ごめんねゆかちゃん。でも、あなたならできるわよね。今になってみたら、『ライブ・アライブ』の作曲を、わがまま言ってでも手がけたのは良かったな。ゆかちゃん。わたしが自分の気の向くままに曲を書いても、あなたなら、きっと、わたしと一緒に演奏してくれると思う。そして、同じね。あなたが書くのなら、きっとどんな曲でも、わたしはあなたと一緒に演奏したなと思う。あなたのスキャットが大好きだから。
賢次のことも忘れちゃいけないか。
わたしは今でもはっきり覚えている。ゆかちゃんが、『ライブ・アライブ』が、それも、わたしの作曲で完成したって言ったとき、あなたはわたしに言ってくれた。
「夕祈の作曲か」 うん、前の日まで「夕祈さん」だったのにね。
賢次、そしてゆかちゃん。わたしは今幸せだなと思うの。わたしは、まだ誰も幸せにはできないけど、でも、いいのよね。そう言って悩んでいる暇があったら、まず、わたしが幸せになってみなくちゃね。あ、そうか。わたしが賢次に、「音楽なんかで人は幸せにできないのよ」って、酔って絡んだとき、そういって、教えてもらったんだったわ。
うん、人を幸せにするのは――そもそもできるかどうかわからないけど、自分が幸せになってからでも、遅くはないよね。他の人が幸せになるまで自分の幸せを保留してたら、そう、多分、何もできないわ。
そんなことを考えてうつらうつらしていると、人の気配を感じた。あ、賢次だ。何となくわかる。ずいぶんと長い間賢次は私のことを見つめていた。わたしが相変わらず狸寝入りを続けていると、賢次が近寄ってきて……そして、わたしは彼の唇を感じた。やっとファーストキスだなんて、柄にもなく奥手なんだから、まったく。でも……でも、ありがとう。
わたしはいつのまにか眠っていて、気がつくと賢次はまだ隣にいてくれた。ずっといてくれたのかしらね。知ってるのよ、あなたがキスしてくれたこと。わたしはちょっと微笑みを返す。賢次は気づかないだろうな、わたしの微笑みの意味。
ふと、階段を降りる足音がして、ゆかちゃんが顔を見せる。
「おはよう、夕祈さん、賢次さん」
「あ、おはよう」
「おはよう、本当に」
この瞬間、わたしの曲のタイトルは決定した。『おはよう! みんな』
Fin.