あたりは、少しずつ暗くなって来ました。知らない街の夕暮れはいつでも少しばかり寂しいものだわ――そう思いながら旅人が歩いていました。
今夜の宿を探さなければなりません。でも、旅人の財布には今晩と明日の朝の食事をしたらなくなってしまうくらいのお金しか残っていなかったのです。
こんな事には慣れているから――旅人は思いました。
お金がないからといっても悲しかったわけではないのです。それに、明日になれば港町に出ます。そこでしばらく働かせてもらうことも決まっています。
日暮れまでには港町に出られると思っていたのが、どうしたわけかひとつ手前の街で日が暮れてしまったのです。
まあいいわ。宿屋を探してみて、泊まれそうになかったら一日くらいのことだから、野宿でもすればいいとも旅人は思っていました。
街の人から噂を聞いて、旅人は街外れの宿屋にやって来ました。
街外れに宿屋が一件あって、そこではお金がなくても旅人を泊まらせてくれるというのです。
そんなことってあるかしら――と、旅人は思ったのですけれど、街の中でじっとしていてもどこにも泊まれないのですから、街外れまで行ってみることにしたのでした。
宿屋は小さな丘の上にありました。
ちょうど季節が良かったのか、あたりいちめんを花梨の実に囲まれて、「花梨荘にようこそ」と、小さな看板がかかっていました。
「あの……」
「はい、お泊りですか?」
中からおばあさんがでてきました。
「街で話を聞いて来たのですが、安く泊めてもらえるのでしょうか?」
「そうね。安いか高いかはお客様の感じかたしだいですよ。でも、お金はいらないわ」
「え? お金はいらないのですか?」
「そうですよ。花梨荘ではお金はいただきませんよ」
おばあさんは、こんな風に話してくれました。
見ての通り粗末な宿屋ですよ。部屋はあまり広くないし、布団がひとくみあるだけです。
そして、残念ながらお食事はご用意できません。食事は街で済ませてもらってもいいし、裏に畑がありますから、そこからなにかとってきてもいいですよ。
でも、畑から取って来たなら、その分の種をまくか、土を耕すか、水をやるか……なににしろ、自分がとった分畑に返してあげてくださいね。
部屋がいたんでいるかもしれません。布団が破れているかもね。そういうのをみつけたら、直しておいてください。もちろん、ご自分で傷をつけたり破いたりしたら、直していただいたらけっこうです。
「そうですか? 変わった宿屋ですね」
「ええ、ここではね、お金がなくても自分で自分の仕事をしてくれる人なら大歓迎ですよ。布団の破れが直せないなら、他の部屋の掃除してくれてもいいし。体が動かせないのなら、悲しんでいる人に優しいお話をしてくれてもいいわ」
旅人は、花梨荘に泊まることにしました。
裏の畑から野菜を少しばかりとってきて、街で買って来た薪で食事を作りました。他に泊まっている人がいないようなので、宿のおばあさんと一緒に食事を食べました。
もちろん、野菜を抜いた畑には、街で買って来た種を植えて、少しばかり水をやっておきました。
旅人は占師でした。旅をしながら占いをしていたのです。
もっとも、占いだけでは暮らしてゆけないので、たいていは酒場で歌をうたって暮らしのたしにしていました。明日ゆく予定の港町でも、歌わせてくれるという酒場を見つけたのでした。
それにしても助かったわ――と旅人は思いました。
秋も深まって花梨の実がなる頃だから、やっぱり野宿はしないにこしたことはありません。
それに――なかなか良い部屋だわと、そう旅人は思いました。
こんなに安心して眠れる宿屋に泊まったのは初めてではないかしら?
宿屋のおばあさんが言ったとおり、質素な部屋には違いありませんでした。それに、ずいぶん古い感じがする建物です。いつも泊まっている宿屋にくらべてみても、そんなに立派な部屋だというわけでもなさそうです。
やっぱり、ここは花梨荘だからなんだわ。
そうです。
部屋のあちらこちらに修理のあとがありました。
びっくりするくらいじょうずに直してあるところも、穴をふさぐのに板を打ちつけただけのところも、いろいろでした。
――ごめんなさい。ちゃんと直せるようになって、必ず直しに来ます――
ちょっと不器用そうなそんな言葉を彫りこんだところもありました。
ここに泊まる誰もがこの部屋の暖かさを感じたのでしょう。
そうして、自分もどこか直しておきたいと思いました。そうすれば、また、少しだけこの部屋が暖かくなるような気がしました。
占師の旅人は、荷物の中から水晶球を取り出すと、しばらく眺めていました。どこを直したら良いか水晶球にうつらないかしらと、そう思いながら。
「ふふ、こんな時には、やっぱりだめね。それに、そもそも自分が直すところなんて、自分で探さなきゃ」
本当のことを言えば、旅人は占いなどできなかったのです。水晶に未来を映すことも、カードを読むことも、そうして、星のお告げを聞くことも、何もできなかったのです。
旅人は西の街の出来事を思い出していました。
西の街で男の子と船乗りになることを話した後で、旅人は男の子のお父さんが海で亡くなっていることを知りました。やっぱり船乗りをしていて、事故だったそうです。
男の子のお母さんが、旅人のことを聞いて、どなりこんで来たのでした。
「あんたは、私の子どもまで海で死なせる気」
と、そう言って来たのでした。
占師の旅人は、なんとか言おうとしたのですけれど、言葉になりませんでした。
いつもそうだわ――と、旅人は思います。
誰かが忘れてしまった夢を思い出して欲しいと思う。夢を持ち続けるってのは素晴らしいことだから。
でも、その度に、お母さんだとか、恋人だとか、他の家族だとか――そういう人たちがどなりこんで来る。
気持ちはわかるのね。夢を持ち続けたからって言って、夢がかなうとは限らない。そうして、どういうものだか、確かな夢は、必ず誰か回りの人を悲しませてしまう。
本当は旅をして来たんじゃない。誰かに夢を見ることを思い出させてあげる。その夢が大きければ大きいほど、他の誰かを悲しませてしまう。そして、誰かが悲しむのを見る度に、私はその街から逃げ出して来たんだわ。
それでも、「夢を見ましょう」と、そう言ってみたくて。
誰も悲しまないですむ夢を持っている人を探して歩いているのかもしれない。
旅人はもう一度部屋の中を見回しまいた。
部屋に残っているたくさんの修繕の跡が、たくさんの旅人が残した、かなわなかった夢の跡のように見えました。
「わたしはね、歌うたいになろうとしたんですよ」
「歌うたいですか?」
「そうですよ」
その夜のお客は旅人ひとりだけだったようす。そんなわけで、旅人は朝ごはんも、宿屋のおばあさんと一緒に食べることにしました。
旅人は「とってもいいお部屋でした」と挨拶をして、ついでに、昨日思ったことなんかをおばあさんに話したのです。
おばあさんは、それを聞いて、おばあさんのことを話してくれました。
おばあさんは、歌うたいになりたいとおもったのです。
そうして、まずお金をこしらえたの。お金は少しずつしかたまらなかったから、自分なりに勉強もしてみたのよ。どこかに歌のじょうずな人がいるって聞いたら出かけていったわ。
こんな田舎じゃ歌うたいになんかなれない――って、そう言ってくれる人もいた。
でも、私は自分の、歌うたいになりたいっていう夢をね、ばくちみたいなことにはしたくなかった。大切にしていたかったのね。
とりあえず、都会に飛び出してみて、いちかばちか――じゃなくて、すこしずつ育ててみたかったの。
運だめしをしていたら、歌うたいになれたかしらね。
わたしはね、ずいぶんと昔のことだけど、男の人を好きになったの。それで、その気持ちを歌にしてうたってみたいとも思ったわ。
でも、どうしても、いつまでたっても、わたしには出来なかった。
本当にじょうずな人の歌もずいぶん聞いたわ。わたしなんかとてもかなわないと思った。そうこうするうちにこの年でしょ。そうして、わたしは、それまでのわたしの夢をしまっておくことにしたの。
「しまっておくですって?」
そうよ、けっきょく歌うたいにはなれなかったけれど、歌うたいになりたいって思って生きて来た、わたしのことは、自分でも好きですものね。だから、思い出は思い出でしまっておくのよ。
「かなわなかった夢でも?」
そう。夢はね見るだけじゃだめだものね。かなえようとしなきゃ。
そうして、夢をかなえようとするのに大切なのはね、無理をしないで、でも、大切に――ってことだと思うの。
「え?」
自分が出来る範囲で夢をかなえようとすればいいの。でも、出来る限りのことをしなきゃね。そうして、なげやりになっちゃだめ。自分が夢を「しまっておいてもいい」と思えるまで、大切にしなきゃ。
あんたが、西の街で出会った男の子? うまくいけばいいけどね。母親に反対されて家を飛び出すんじゃなくて、母親に自分の気持ちをちゃんとわかってもらえるように、自分の夢を投げ出さずにいられるかしら?
旅人には少しばかりわからないところもありました。
いえ、それでも、なんだかわかったような気もします。
「だいじょうぶさ、時々思い出しておくれ。あんたにはわかるさ」
そうして、旅人は港町に向かいました。
おばあさんから分けてもらった、花梨の実の甘酸っぱいかおりがします。
花梨の実は、すっぱくてそのままでは食べられない。だから、砂糖漬けやお酒にして、時間をかけて花梨の実を食べられるようにするんですよ。
今のまま、生のままで役に立たないなんて、自分のことを思わずに、大切な夢を、無理をせずに、大切にして、いつか、甘い花梨のお酒になればいいじゃないの。
夢をしまって、今度は他の人たちの夢を応援したいと思ったおばあさんは、今の花梨荘の前の主人から宿屋を譲られて、花梨荘と名付けたのでした。