夏の暑い日だった。私は通すがりの喫茶店に入った。
ややあって、わたしは、描きかけの絵に気づいた。イーゼルに架かったままの絵は、誰かが描きかけのまま、ほんの少し席をはずした――という風に見えた。
「ああ、あれですか。いえね、ケンジのやつが、ここで描かせろってうるさいものでして。お気に触りましたか」
「いいえ。とんでもありません。良い絵ですね」
「わかりますか?」
「ええ。まだ出来上がっていないのにこんなことを言ってはいけないんでしょうけどね」
「いえね、わたしも、ケンジの絵は好きなんですよ。もちろん、出来上がったのも、いいに決まってますけどね、こうして描きかけの絵がまた、どことなくいいんですよ」
「ここにかかっている絵は、全部ケンジさんの絵ですか?」
「ええ、そうです。どうです、なかなかの絵でしょう」
「ええ。そうですね」
少しばかり長居をしたにもかかわらず、その日はケンジさんに会うことは出来なかった。
しばらくして、わたしはそのお店を訪れると、キッチンには、マスターではなくて、若い男の人がいた。勝手が違ってちょっとだけどぎまぎしていると、その人は、わたしに声をかけた。
「いらっしゃいませ」
「…………」
「今日のお勧めは紅茶です、お客さん」
「そう……」
なんだか勝手ね……と、ほんの少し思ったけれど、わたしは素直に紅茶をオーダーした。
「いかがですか?」
「おいしいですね」
ちょっとずうずうしくないかな……と思いながらも、結構雰囲気のいい人で、わたしも、受け答えをしてしまう。
これがケンジさんとの出会いだった。
久しぶりに顔を出して、マスターに店番を押し付けられたのだそうだ。
店番を頼まれたものの、ケンジさんは紅茶しか入れられなかった。そんなわけで、「今日のお勧め」ということになったらしい。
「紅茶だけは、マスターがしっかり教えてくれてね」
「ずいぶんと勝手ですね」
「ごめん。でも、素直に紅茶を注文してくれて助かったな」
「今度来たときには、何か別のものでもお願いしようかしら」
「それは困る……」
「そう……それで、今日は描けましたか?」
「今日は描いてない。いきなり店番を押し付けられたし。それに、今日は描くつもりじゃなかったから」
「描くつもりじゃなくても来ることがあるの」
「そう、コーヒー飲みたいときとかね?」
そういえば、ここはそもそも喫茶店だった。
わたしは、ケンジさんに「描きかけの絵も素敵ですね」というと、彼はずいぶんと満足そうにしていた。
なんでも、描いてしまった絵は「思い出」なんだそうだ。
どんな絵を描こうかって決めてから描くのじゃなくて、その時々で描きたしたり、時には消したりを繰り返す。いじりようがなくなると、その絵は絵ではなくて、「思い出」になってしまう。
ケンジさんはそう話してくれた。
だから、描いているときが本当に楽しいとケンジさんは言った。
物語は突然に終わった。
ずいぶんと長い間、ケンジさんの絵は変わらなかった。
ある日、もう顔見知りになってしまったマスターが言った。
「今日のお勧めは紅茶です、お客さん」
ずいぶんと悪い予感のなかで、わたしは紅茶をオーダーした。
マスターの入れてくれた紅茶は、ケンジさんの紅茶にそっくりだった。
今でも、ケンジさんの絵はイーゼルに架かったままになっている。
マスターが持ってかえらないかと勧めてくれたけれど、やっぱりここにあるのがふさわしい気がして、わたしは断った。
だから、ケンジさんの絵は描きかけのまま、この喫茶店にある。そうして、ときおり訪れるわたしを、今でも迎えてくれる。