夕方になって、花梨はそっと家を抜け出しました。ママはこれからお皿洗いだし、パパはまだ帰ってきていません。いつもは、ママがお皿洗いを終えて、お風呂に呼んでくれるまで、しばらくの間ひとりでテレビを見ているのですけど、今日はそっと家を抜け出してみることにしたのです。
どうして、夕ご飯の後に砂場に行ってはいけないのかしら? と、花梨は思っていたのです。
ちょっとだけだもの。と花梨は思いました。今日も砂場で遊んでいたのに、ママは、「夕ご飯の時間だから帰ってきて」と、花梨を連れて帰りました。
「もうちょっと」といくら言っても、ママはむりやり花梨を連れて帰ってしまったのです。
もう少し遊びたかったんだもの。
花梨はそう思ったのです。「もうちょっと。もうちょっとだけあそんだら、帰ってきてママと一緒にお風呂に入ればいいよね」と、思いました。
家を出ると、あたりは薄暗くなっていました。やっぱり、夕ご飯の後にはだれも遊びに出かけないのかな? と花梨はちょっと思ったのですけど、砂場まではそんなに遠くはなかったので、そのまま砂場に行くことにしました。
砂場には男の子がいました。
やっぱり遊んでいる子がいるじゃない……と思って、花梨はちょっとだけ安心しました。
「こんにちは」
急に声をかけられて花梨はちょっとびっくりしました。
「こんにちは。あのね、夕ご飯の後に砂場で遊んでも怒られないの?」
「うん。怒られない」
「そう。いいなあ」
「いいでしょう」
「それじゃ、もっと砂場で遊びたいのに、『夕ご飯だから帰ってらっしゃい』って、言われたりしない?」
「全然」
「いいなあ。パパもママも優しいのね、きっと」
「ううん。パパやママなんていないよ」
「いないの?」
「うん。だってぼくは、春の風だもの。パパやママなんていないよ」
春の風ってなんだろう?
花梨はそう思いました。帰ったらママに聞いてみようかな。あ、でも、パパやママがいないのって、寂しくないのかなあ?
「寂しくなんかないよ、ぼくは春の風だもの」
「ふうん……」
男の子は言いました。
本当は春の風は目に見えないんだよ。でもね、ここの砂場みたいに、春の風がお休みをするための場所があるんだ。ぼくだけじゃなくてね、他にも春の風がいて時々ここや他のところでお休みをするんだよ。
その時は、こうやって目に見えるようになる。今日は、見つかってしまったね。
ぼくね、もう帰ろうかなと思うんだ。
君、好きなときに好きなだけ砂場で遊べたらすてきだと思う?
「うん。好きなときに好きなだけ、砂場で遊びたい」
花梨はとっさに答えました。
「じゃ、ぼくと行こうか。春の風が帰るときに一緒に手をつなぐと、だれだって春の風になれるんだよ」
「そう?」
「そうすれば、いつでも好きなだけ砂場で遊んでいられるんだ」
でも、ママはうるさいけど……やっぱり、いないと寂しいと思う。だって、お風呂に入る前にひとりでテレビを見てるのって、あんまりおもしろくないもの。だから、本当はお風呂はあまり好きじゃないんだけど、ママがお風呂に呼びにくるとすぐに入るんだ。
だって、早くお風呂に入って、早く一緒にテレビ見たり本を読んだりした方が楽しいから。砂場でずっと遊ぶのと、ママと一緒にいるのとどっちが楽しいかしら?
そのときでした、遠くから、「花梨!」と呼ぶ声が聞こえました。あ、パパとママだ。
「花梨ね、帰る……」
そう言って、花梨は声のする方に走ってゆきました。
そのとき、少しだけ風が吹きました。
男の子は、もういませんでした。