「あ・り・が・と」
彼女は突然に声をかけてきた。
ぼくがハンカチ――公園通りに落ちていた、菜の花畑をあしらった、おまけに、「私は菜の花です」なんていう、踊るような文字の縫い取りまであるハンカチを拾い上げた、ちょうどその時のこと。
きっと、なくしたのに気づいてあわてたのだろう。少し息が荒い。ぼくだって、理由はどうあれ、女の子にいきなり話しかけられて、少しばかりどぎまぎしていた。そんな訳だから、その時はちょっとぎこちない挨拶を交わして、拾ったハンカチを彼女に返すと、そのまま別れてしまった。
ぼくは、春菜――確かに、彼女は菜の花だ――と、こうして出会った。
実は、春菜は耳が悪い。ほとんど聞こえないらしい。「先天性外耳道閉鎖症」という病名と、おまけに、なんだかの条件が重なって、ほとんど聞こえないのだと彼女に聞いたとき、ぼくには、信じられなかった。
ハンカチを拾って以来、ぼくは何度か公園で春菜と話した。初めての時もそうだったし、春菜は、ぼくの話すことをちゃんと聞いてくれて、そして答えてくれた。聞こえないはずはない。
「うん。いつか、声かけてくれたこと、あったでしょ。後ろから」
「そういえば……」
春菜を見つけて、彼女の肩ごしに呼びかけたことがあった。でも、彼女は気づかなかった。肩を叩くと、ちょっとばかり驚いた様子で、やっと気づいてくれたんだっけ。
「あの時は、何か考えごとでもしてるのかと思った」
「ご近所じゃ、補聴器つけない、から、わからない、後ろからだと」
「補聴器?」
「うん。人混みの中に、出なきゃならない時。いろんな音、聞かなきゃいけない時、補聴器つけるわ」
「そう……」
「でも……世界は騒がしすぎるわ。補聴器つけると、そう思う。いつも」
「騒がしい?」
「うん。落ちついて考えられない、なにも」
「そんなに、うるさくはないけどね」
「騒々しいわ、充分。私にはね」
「だから普段は補聴器をつけないの?」
「そう、できるだけね。でも、そうか、あきらも、聞こえなくなること、あるのね。考えごとしてるときとか」
「うん。母さんなんか、しょっちゅう言ってる、『おまえには耳がないのか』なんて……あ、ごめん。そういうつもりじゃ……」
「いいわ、そんなに、気にしなくても」
春菜は、唇を読むことができて、だから、ぼくの話したことがわかる。補聴器があれば、本当に聞くことだってできる。話す練習もした。だから、「正面から話してくれたら、ちゃんとお話できるわよ」と春菜は言う。
ぼくは公園で春菜を見かける度に話しかけた。少しずつ話をして、そして、少しばかり彼女のことがわかってきた頃、季節は夏に移ろうとしていた。
春菜は、公園をつっきるいつもの散歩道を歩いていた。
ぼくは彼女の姿に気づいて、いつものように声をかけようとして、ちょっと不思議に思った。春菜が笑っていたから。
もちろん、笑顔で歩く姿は、彼女には良く似合っている。ただ、その時の春菜は単に笑顔だというだけではなくて、誰かと話しているように見えた。良く見れば、ときどきうなずくようにも見える。見えない誰かと話しているような春菜が、ぼくには、ひどく不自然で、そうして、声をかけたものかと、ぼくが迷っているうちに、春菜は突然振り返ると、彼女の方から、先に声をかけてくれた。
「こんにちは」
「あ、ああ……どうして」
「ふふ、先生がね、教えてくれたの。あきらが、近くにいるよって」
「先生?」
春菜はそのままゆっくりと視線を移した。その先のベンチでは、春菜よりは少しばかり年上らしい女性が微笑みかけていた。
「行かない?」
「え?」
「紹介するわ、私の先生」
春菜に引きずられる格好で、ぼくはベンチに近づいて行く。
「私の先生、手話のね」
「え、えっと、初めまして……で、わかるのかな?」
「わかりますよ。ちょっとゆっくり、話してもらえたらね。初めまして。あきらさん、ですね。春菜ちゃんから、聞いてますよ。噂は」
隣で、春菜が何やら慌てて身ぶりをしている。
「春菜ちゃん、いいですよ、そんなに照れなくても。それに、あきらさん、春菜がお世話になってます」
「え、お世話だなんて……べつに」
「そうそう、申し遅れました。芙美子と申します。よろしく、お願いしますね」
言い終わると、彼女は春菜に向かって何事かを話した。春菜が真っ赤になって首を振る。彼女は、それにかまわず、春菜に促すような仕草をする。
「あ、あのね。先生がね、その、いい友達ができて、その、よかったねって……」
春菜ばかりじゃない、それを聞いて、ぼくも思いきり照れてしまった。
「じゃ、さっきは、本当に話していたんだ」
「そう。先生とね」
一風変わった会話が続いた。日本語――と、春菜は、敢えて言った――は余り得意ではないからと、手話で話す芙美子先生。未だに手話がわからなくて、話し言葉のぼく。そして、春菜が二人を取り持ってくれた。
「でも、春菜は向こうの方を歩いていたじゃない」
(あきらったら、不思議がってる。私があんな所を歩いていて、先生と話してたっての)
(そうでしょうね、きっと)
「だから、手話、使ってた」
「あ、そうだよね。手話だから、隣にいなくても話せるんだ」
(そうそう)
「いいでしょ、手話も」
「なんだか、うらやましくなってきた」
ぼくは、先刻の様子を思い浮かべた。わかってしまえば、不自然でもなんでもない。それは魅力的な春菜の姿なんだろうと思う。
(そんなことないわよ……)
「なに?」
「あ、ごめんなさい。見ていてきれいだねって、その、私がね、歩くのって、その、先生が」
「うん、ぼくもそう思う」
(そうでしょ)
背筋を伸ばして、それも、無理にではなくて、そうするのがいちばん気持ちがいいというのが、良くわかる姿勢。心持ち微笑んで、軽くうなずきながら歩く。そういえば、彼女の方でもときどき指を動かしていたような気がする……あれ?
「でも、春菜は先生の方を見てなかった……」
(なんだって? 彼?)
(ふふ、先生のほう見てなかったって)
(なるほど)
「見てたわ、ちゃんと、ほらね」
春菜はあらぬ方向を向く。ぼくはなんだか無視されたような格好になって、ちょっとむくれていた。
「あきら、大丈夫よ、見えてるから、むくれなくても」
「え?」
「だから、大丈夫なの、手話でもね、わかるわ、見えていれば、ほんの少しでも」
(春菜は達者ですものね、手話)
(照れるわ、ちょっと)
「うん? ほめてくれたの、先生が。私のこと、達者だね、手話がって」
「ぼくもそう思うな」
「あら、あきらは、わからないんじゃない? 手話」
「手話はわからないけど、上手いかどうかは、見ただけでもわかるさ」
そうだ。確かにぼくには手話はわからない。わからないけれど、話している――確かに彼女は話しているんだ――のを見れば、そのくらいはわかるさ。
「そんなこと、見ただけでわかる」
「そう?」
「そういうものだよ」
秋の初めに、ぼくは春菜から手紙を受け取った。自分自身の話し言葉を、「手話訛りの日本語」だと言う春菜の手紙には、きれいな言葉が綴られていて、春菜が言うところの手話訛りを、直せないのではなくて、直すつもりがないだけなのだと、伺い知ることができた。
先生に耳の手術を勧められたと、春菜は書いてよこした。健常者と全く同じとまではいかなくても、手術をすれば、「障害者」ではなくなるだろうと手紙には書かれていた。
ぼくは、春菜の病気が手術で直るものだと知って嬉しくなった。ただでさえ、彼女は菜の花なんだ。これで耳が聞こえるようになれば……。
ところが、春菜は、手術を受けるつもりはないと手紙を結んでいた。
必要なら補聴器を使えばいいの。必要のない時には、補聴器を使わないこともできる。私は、音を聞くことも聞かないこともできる。手術なんかして、騒々しい世界に放り出されるなんて真っ平。
手紙にはそう書かれていた。
「手紙読んだよ」
「ありがと」
「手紙だと全然訛りがないんだね」
「うん。ちょっと硬くなる、まとまったこと書こうとすると」
話しながら春菜は、いつもと同じ軽やかさで歩いている。
「それで手紙だと普段の話し方と違うんだね」
「そうでしょ、聴者だって」
「確かに。そう言われたら、ぼくだって話す言葉と手紙とじゃ、だいぶ違った言葉になるものね。でも、春菜は良く知ってるんだね、えっと……聴者のこと。ぼくなんか、春菜ちゃん達のこと何も知らなかったのに」
「うん、数が多いもの、圧倒的に、聴者の方が。だから、そんなに大変じゃない。聴者のことを、知るのは。あきらが知らないのは、聾者のことをね、今まで出会わなかった、それだけのことよ」
ぼくは、そこまで話して、本題に入った。
「でも、どうして手術しないの? 正直言って、うれしかったんだけどな、春菜の病気が直るって知って」
「意外ね、あきらが言うなんて、そんなこと」
「意外?」
「そう。考えて、もっと単純に。聞きたくないの、私は、音なんて」
「でも……聞こえないよりは聞こえた方が……」
「聞こえた方が?」
「…………」
「あきら。私ね、思っていたの。珍しい人だわ、あきらって、とっても」
「珍しい?」
「うん。怒った?」
「別に、怒りはしないけど……」
「だからね、わかってくれると思っていた、あきらなら」
「わかるって?」
「私は、聞きたくないの。私は聾者よ。聞きたくないのに、押しつけるのはやめて、聴者の基準を。『聞こえた方が良い』なんて」
「押しつけるなんて……」
「あきら、話してくれた、私と。自分の言葉で。他のお友達に話すのと、同じように、きっと」
「それはそうだけど」
「私が聾者でも」
「だって、話すことができるのだもの……」
春菜はしばらく考え込んでいた。
「私ね、大嫌い。ボランティアの人たちって」
春菜は出し抜けに話し始めた。
「大嫌い……って言ったの?」
「うん。ちゃんと正しく使ってるわ、言葉は」
「じゃ、どうして?」
「そうね。確か、感謝しなきゃならないのは。誰もがお話できるわけじゃないし、聴者とね、普通に。それに……」
「それに?」
「伝えようとして、いろんなことを、聾者に、がんばってくれてるのも、わかるの」
「じゃ、嫌いだなんておかしいよ」
「嫌いなの。確かに伝えようとしてくれる、いろんなことを。でもね、聞いてくれたのは、あきらよ、むしろね」
「聞いたって……そんなおおげさな」
「そうね。こういうこと、それじゃ」
「なに?」
「私の母語は手話ですって言った、とき、すぐに納得してくれた、あきらは」
「だって……そうだろ。そりゃ、ぼくは手話を知らないから、春菜はこうして話してくれてるけど、芙美子先生とはちゃんと手話で話していたじゃない」
「ふふ、手話で話す――それだけで、合格よ、あきらは。そう言ってくれる、聴者って、そんなにたくさんは、いないわ。信じてるみたい、声を出さなきゃ言葉じゃないって。もっと言うとね、違うものだって、手話と日本語がね――だから、わかってくれる人、私の母語は日本語でなくて手話なんだって、とても少ないわ」
「それは、手話の会話を見なけりゃ、わからないかも知れない。ぼくだって春菜と先生の会話を見なかったら、手話とシムコムの区別なんかつかなかったもの」
「シムコム?」
「よくやってるでしょ、話しながら、話しているのと同じ単語を手話の形で作るっていう……あれが手話だと思っていた」
「あれ? とんでもない誤解だわ、それは。でも、どこにでもある誤解よ」
「そう……」
「そうよ。でね、あきら」
「なに?」
「とにかく、私は、手話を話すようにできてる。それで日常は不自由していない。そりゃ、圧倒的に多いから、聴者の方がね、だから、聴者と話す練習もした」
「そうだね、現にこうしてぼくとも話せるんだものね、春菜は」
「だから、聞こえなくても、特に困らない」
「まあ……それはそうなんだろうけど……」
「でもね、ボランティアの人たち、あ、訂正、全部じゃないわ、その中の、私の嫌いな人たちは、私が聞こえないっていうだけで、憐れんでくれるわ、私のこと。それが、嫌、とても。何もわかろうとしないで、私のこと、どう思っているか、どう感じているか、この私が。それを何もわかろうとしないで、ただ、押しつけてくる、人たち。聞こえないから哀れに違いないなんて」
「…………」
「本題ね、やっと。だから、あきらが、『私は聞きたくない』言ってるのに、そう、それでも、『聞こえた方が良い』なんて、憐れむなんて、私のことを、考えたくない」
説得されてしまった。それも、「日本語」で。
ぼくは、かなり複雑な気分を味わっていた。単に話し方の上手い下手じゃない。春菜が考えていたことに、ぼくは考えも及ばなかった。その事実がひとつ。そして、単に言い合いに終わるんじゃなくて、ぼくに、それを気づかせてしまったという事実がひとつ。春菜は、かわいいだけの菜の花じゃない。
春菜は言った。五体満足が一番良いなんて、健常者の思い上がりだと。もちろん、聞こえて、見えるのが便利には違いない。それまで聞くことが当然だった健常者が、突然聞こえなくなったら、そりゃ、困るでしょう。
でも、本当に聞こえるべきものなの? 聞くことが当然だった健常者が、聞こえなくなったら困るように、聞こえないのが当然だった聾者が、聞こえるようになったら困るかもしれないって、聴者は考えてはくれないわ、決して。
手話ってのは、単なる身振りじゃない。私は、充分話すことができるし、聴者と話さなければならないとしても、聞こえなきゃならない必然性はない。
翌日は雨だった。
ぼくは少しばかり落ち込んでいた。春菜は、聞こえなくても平気なんだ。春菜はぼくにいろんなことを教えてくれた。でも、ぼくは――聞くことはできても、結局何も伝えられなかった。
穏やかな雨の音が聞こえる。なんて静かなんだろう。
あれ? ぼくは、口に出して言ってみる。「世界はなんて静かなんだろう」
聞くことのできない春菜は言った、世界はうるさすぎると。ぼくは思う。世界はなんて静かなんだろう。小雨の静けさ。そよぐ風。風に吹かれる落ち葉。
補聴器を通さないで聞いた音。恐がることなんてない。もしも、聞こえたとしたら、世界はもっと――春菜が思うよりももっと、静かで、穏やかで、気持ちの良いものなんだ。
それに気づいたとき、無性に春菜に話したくなった。春菜は、ぼくの言葉をどう聞いてくれるだろうか。ぼくにだって、伝えられることがあるんだ。
突然押し掛けたら迷惑だろうかとも、少しばかり思ったけれど、その時はその時。早速出かけることにした。
春菜のお母さんがぼくを迎えてくれた。初対面だったので、ちょっとぎこちない挨拶になったけれど、ぼくのことは聞いているらしくて、すぐに春菜を呼んでくれた。あれ? どうやって呼んだんだろう。
思っているうちに春菜が顔を出す。お母さんはぼくに、部屋に上がるように促してくれて、同時に、春菜と何やら「話して」いた。後で聞くと、「部屋は散らかってないの?」とか、母親らしい小言を聞かされていたらしい。ややあって、ぼくは春菜の部屋に通された。
「あら? 知らないの? こんなものだけど」
不思議そうなぼくに、春菜はポケットベルを見せてくれた。振動タイプ。本当はポケットベルとはちょっと違うそうだけど、まあ、似たようなものよ、と春菜は笑っていた。なるほど、お母さんは、そうやって春菜を呼んだんだね。
春菜の笑顔に、ぼくはちょっとひるみそうになる。春菜は、本当に幸せそうだ。彼女は、ちゃんと生活できるようになっている。そりゃ、手話の他に話し言葉まで覚えるのだから、それなりにたいへんだったのだろう。彼女の母親にしても、娘の耳が聞こえないってのは、心配の種ではあっただろう。でも、春菜はちゃんと暮らしているし、お母さんにしても、春菜との会話を楽しんでいるように見えた。
やっぱり、春菜には聞こえることなんて、必要ないのかな……ぼくは、そう思いながら、相変わらず降り続いている雨の音に耳を傾けた。
世界はなんて静かなんだろう。雨の音。時折遠くで聞こえる車の音までが、心地よく聞こえる。ぼくは、改めて思った。世界はなんて静かなんだろう。春菜はちゃんと言ってくれた、世界は騒がし過ぎるって。じゃ、ぼくは、ちゃんとぼくの思いを伝えよう。世界はこんなに静かなんだって。
「あきら?」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「うん。でも、良い顔してた、あきら」
「良い顔? ……おだてちゃいけないよ」
「ううん。そんなことは、おだてたりは、しない」
春菜は、えらく真剣な表情で、ぼくのことを見ていた。
「考えて、いたの?」
「うん……違うか。雨の音を聞いていた」
「雨の音?」
ぼくは目をつぶって、雨の音を聞いた。やっぱり話したかったことを話そう。
「雨の音を聞いていた。とっても静かだから」
「静か? なぜ? 聞こえることが、音がするのが、なぜ静かなの?」
「わからない。でもね、静かなんだ。ぼくは聴者だよ。これまでずっと音を聞いてきた。だからなのかもしれない。思うのさ、静かだってのは、何も聞こえないってことじゃない」
「聞こえないことじゃない?」
「聞こえなかった音が聞こえることなんだよ」
春菜は少し混乱しているようだった。そうだろう。ぼくだって、音が聞こえることが、静かだっていうことなんだ……なんて、本当はどう言って良いのかわからない。言葉にできない、ひょっとしたら、言葉にしてはいけないのかも知れない。ぼくは、さんざん迷って、説明する替わりに、雨の歌を歌った。知っている限りの、静かな雨の歌を。春菜には聞こえないかも知れない、雨の歌を。
気がつくと、春菜の耳が目の前にあった。
「聞こえるの?」
「うん。かすかに。このくらい近ければ。続けて。うるさくなんかない、から」
ぼくは、そのまま、歌い続けた。春菜は、眼を閉じていた。もたれ掛かる春菜の体の重さを感じた。
やがて、あたりが暗くなる頃、ぼくは彼女の家を辞した。
翌朝、きれいに晴れた公園を歩いていて、ぼくは芙美子先生に出会った。
「あきらさん、やっぱり、いらしたのね」
「ごぶさたしてます、先生」
今日は春菜がいないので、先生も手話抜きで話してくれる。
「春菜ちゃんが、病院に、行くことにしたそう、ですよ。今は準備でおおわらわ、のようですね」
「病院って?」
「心配は、しなくて、いいですよ。手術のために、検査を受けに行くだけ、ですから」
「手術のために検査って……彼女手術する気になったんですか?」
「ううん。それは、まだ。検査だけは、受ける気に、なってくれましたよ。あきらさん、あなたのおかげ、です」
「ぼくの?」
ちょっといぶかしむ。ぼくは、結局何一つ話せなかったのに。
「あきらさん。春菜はね、あなたを通して、雨の音を聞いたそうです」
「ぼくを通して?」
「そう。雨の音を聞いたときの、あきらさんが、とてもすてきだった、だから、春菜は、もう少し、あなたの、聴者の、世界を、覗いてみたくなったようです」
「…………」
「春菜は、あきらさん、あなたのことが、ずいぶんと、お気に入りのようですね」
「え、そんな……」
今度はぼくが照れる番か。
「雨の音を聞いて、雨の歌を歌ってくれた、あなたの表情が、とてもすてきだった、そうです。それで、春菜も、自分の耳で聞いたなら、世界はもっと静かなのかも知れないと、思い始めた、ようですね」
「ぼくは、何も話せなかったのに……ずっと、ぼくは、話すことで生きてきたのに」
「あきらさん、あなたは、話そうとして、けれど、話せなかった。春菜は、勉強家です。聴者が、ことばにできそうなものなら、たいてい、知ってますよ。でも、あなたは、話すことができなかった、話そうとしたのに。それで、春菜は、思ったそうです。聴者の世界にも、言葉では言い現せない、ものがあるのかもしれないって」
「……芙美子先生は、春菜が聞こえた方がいいと思います?」
「ええ。春菜はまだ、迷っている、ようですね。でも、聞くことが、できない、よりは、聞くことも、できた方が、いいと思いますよ」
「聞くことも?」
「そう。聞こえた方が良いなんて、誰にも、言えませんよ。聞こえたとしても、春菜にとっては、同じことかも、知れません。何かが、違うことかも、知れません。迷惑なこと、かも知れません。それは、聞いてみてからのお話です。だから、聞くこともできた方が良いでしょう」
「本当に?」
「だから、春菜は、あきらさん、あなたを通して聞いたのです、雨の音を。それが素敵そうだったから、検査くらいは受ける気になったのね」
ぼくは考えた。聞くことのできない春菜。でも、笑顔が似合って、歩く姿のきれいな春菜。手話で、本当にいきいきと会話をする春菜。聞こえたとしたら、春菜はやっぱり春菜だろうか。ぼくが、芙美子先生に尋ねると、彼女は、教えてくれた。
「やっぱり、世界が騒がしかったとしたら、春菜は、我慢すると思いますか?」
「え? そりゃ、我慢したりは、しないでしょうけど」
「だったら、聞こえるとか、聞こえないとかじゃなくて、いちばん気持ちの良い春菜が、春菜ですよ。他の誰かが、どの春菜が本当だろうかって、決めようとするのは、正しいことでは、ありませんよ」
夕方、春菜が訪ねてきた。彼女は「行ってきます」とだけ言って、病院に向かった。検査入院だから、三日ほどで帰って来る。すぐに会える。帰ってきた春菜は、何を話してくれるだろうか。
彼女が手術を受ける気になるのかどうか、ぼくにはわからない。自分でも、雨の音だとか、風にそよぐ落ち葉の音が、本当に素敵なものかどうかなんてわからない。でも、ぼくは伝えることにしよう。ぼくが感じたままを。
ぼくは、春菜に何を伝えられるだろう。
そして、ぼくも覗いてみることにしよう。春菜の世界を。今のままでも、ぼくは春菜とちゃんと話すことができる。でも、春菜が、芙美子先生や、彼女の母親としたような会話は、ぼくにはできないんだ。春菜はぼくを通して言葉にできない、雨の音を聞いてくれた。それなら、ぼくにだって、春菜のまわりに、彼女が言葉にできずにいるもっと素敵なものを見つけられるだろう。
ぼくは思う。ぼくが手話をどんなに勉強したって、ぼくは、聴者なんだ。同じように、春菜が手術を受けたとして、そして、彼女が、「健常者」になったとして、それでも、きっと彼女は、サイナーなんだ。
春菜はサイナーだ。きっと、それは、ただ単に聞こえるだとか聞こえないだとかいうよりも、もっと大切なことなんだと。