夕暮れ頃に、ぼくは初めての駅に降りました。
こじんまりとした駅前商店街を歩いて、なんだか「通り過ぎてしまった」ような気がしました。ふりかえると、そこには「ここです」という名前の本屋さんがあったのです。
「いらっしゃいませ」
お店の人が、声をかけてくれます。商店街に埋もれてしまいそうな小さなお店で、入ってみると、本棚が七つばかり置いてあるだけです。
「随分と変わったお店ですね」
「そうですか?」
ぼくは、思わず言ってしまいました。だって、どう考えても本棚のならべ方が変なのです。壁に沿ってきれいに並んでいるわけではありません。こちらを向いていたり、あちらを向いていたり、はすかいに置いてある本棚だってあるのです。
それに、良く見ると本のならべかただって変です。『おいしいケーキの作り方』のとなりに『全天星図』が置いてあるのは、何かの間違いじゃないかという気になりますし、『世界怪盗大百科辞典』が入り口の本棚にあるのに、『読者への挑戦《超難問推理事件集》』が、一番奥の本棚にあるのも、どう考えても変です。
ぼくは、本のことに詳しいというわけでもないのですが、きっと、普通の本屋さんの本の並べかたはこうじゃないと思います。
「それに、本の並べ方が、ちょっと変わってるんじゃないかなと思って」
「そうですね。普通に並べている訳じゃありませんから」
「普通に並べているわけじゃないって?」
「なんとなく、いちばんしっくりとくるところに、本を置いたの。他の誰かが決めた並べかたじゃなくてね、私が、ここにあると良いなと思ったところに並べたのよ」
「それを全部覚えているんですか?」
「それは無理だわ。どこにどんな本を置いたかなんて、全部は覚えてないわ」
「本屋さんがわからないんじゃ、どうしようもないよ」
とにかく、おかしな本屋さんなのです。
でも、なんだか、とてもおもしろそうな本屋さんだなって思ったものですから、ぼくは、この街で過ごす間、毎日よってみようかなってふと思ったのでした。
翌日の夜遅く、「ここです」書店に女の人がかけこんできました。
「すみません、『星の国の花束』ってありませんか?」
「申し訳ありません、ちょっとわかりかねるのですが……」
「これです、ここに載っている……」
女の人は、新聞の切り抜きを出すと、「今週の本」だとか、そんな記事を指さしているようでした。
「探してみないとあるかどうかは……」
「いい加減なお店ね」
「申し訳ありません」
それでもしかたなく女の人は、フロアをまわって探し始めたようです。「なんで、子供の本がこんなにあっちこっちにあるのよ」とか、ぶつぶつ言いながら。
ところが、しばらくすると、女の人は本棚の前で立ち止まってしまったのです。やっと見つかったのかな――そんな風に思ったのですが、ちょっと違うようです。
女の人は、1冊の本を手に取ると、なんだかじっと表紙を見ていました。そしてゆっくりと本を開くと、少し読んで。
結局、女の人は、三度繰り返して、三冊の本をレジまでもってきました。
「お願いします」
「ありがとうございます」
「あの、別々に包んでいただけますか?」
「贈り物ですか?」
「ええ。1冊は娘に。1冊はあの人に。そして、1冊は私に」
女の人は、入ってきたときとはうって変わってゆっくりと出てゆきました。
「ここはね、よそのお店とはちょっと違うの」
ぼくが不思議そうな顔をしていると、お店の人が声をかけてくれました。
「違うって?」
「ここはね、自分が本当に読みたい本を教えてくれるところなの。あ、ちょっと違うか。本当に読みたい本を思い出させてくれるところよ。そう、決して誰かが決めてくれた『今週の本』なんかを抱えて、本を探しに来るところじゃないわ」
男の人が入ってきました。
お店の前を通り過ぎようとして、ちょっと気付いたように立ち止まって、少しばかりひきかえして、そして、「ここです」書店に入ってきたのです。
入り口を抜けたあとも、少し要領を得ないようで書店の中をあちらこちら歩き回っていました。
そうしているうちに、昨日の女の人と同じように、本棚の前に立ち止まってしまったのです。
一冊の本を手に取ると、ずいぶんと長い間読みふけっているようでした。それなのに、お店の人は何も言いません。
「立ち読みだよ」
「そのようね」
「いいの?あのままで」
「いいわ、別に」
話しているうちに、男の人と目があって、ぼくは慌ててそらしたのですが……。
どのくらい経ったか男の人は、レジの方にやってきました。手ぶらです。
それでも、レジを通り抜けるときに、小さな声で言ったのです。
「ごめん。お金が無くて」
「いいえ、気にしなくてよろしいですよ」
「また来ます……必ず」
「ええ、お待ちしております」
「ここです」という名の本屋さんは、駅前通りの商店街に埋もれています。
だから、この本屋さんを見つけてくれる人というのは、特に行き過ぎそうになって、その後で引き返してきてくれる人たちは、本当に、「ここです」書店のお客様なのだ――と、お店の人はぼくに言ったのです。
三日めが過ぎて、ぼくはちょっとだけ驚いてしまいました。
「ここです」書店のお客ってのは、とっても少ないのです。ぼくが、そう話しかけるとお店の人はなんでもないことのように笑います。
「そうね。ちょっと少なすぎるわね」
「ちょっとじゃないと思うけど」
「でもいいじゃない、ゆっくりできて」
「お店の人がゆっくりしてても、しょうがないよ」
「そうね。でも、いいの。気がつかなかった?」
「え?」
「ウチのお客様ってね、いいお客様ばかりだから」
「いいお客……って?」
「だってそうでしょ。大抵はなにがしかの本をお買い上げいただいておりますわ……ってね」
「でも、昨日は立ち読みだったじゃない」
「あら、あの人だって、ちゃんと買いに来てくれるわ。また来るって言ってたじゃない」
「信じているんですか?」
「もちろんよ」
「だって、昨日の男の人、ほとんど読んじゃったじゃないですか」
「それでも来てくれるわ。本当に読みたい本なんだから。お金ができるまで、お店であずかってあげましょう」
正直なところ、ぼくには良くわからなかったのです。でも、ぼくも、昨日の男の人はきっとまた本を買いに来てくれるだろうし、お客さんの数は少なくても、毎日、きっと誰かが本を買って行ってくれるような気がしてきました。
「電話かけてますよ」
「そうみたいね」
男の人が入ってきました。店内をひととおりぶらつくと、やっぱり、本棚の前で立ち止まってしまうのです。
昨日までのお客さんと同じです。男の人は、立ち止まるとしばらく本を眺めていました。違っていたのはそれからです。男の人は電話を取り出すといきなり電話をかけ始めたのです。
「でも……」
「どうしました?」
「話している様子はないですよ」
「そうね……もう気にしちゃいけないわ」
そう言うと、お店の人は紅茶をいれ始めました。本屋のレジで紅茶だなんて、ぼくはちょっと驚きましたけど、結局お相伴になって、天気の話だとか、この街の暮らし向きだとかを話していました。電話をかけている男の人は、ちょっと気になりましたけどね。
やがて、紅茶もおしまいの頃、ちょうど男の人は本を一冊抱えてレジまでやってきました。
「あの……お願いします」
「はい。贈り物ですね?」
「え、ま、まあそうです」
「うまく渡せるといいですね」
「え……。ええ、そうですね。うまく渡せたらいいな。でも、渡せなかったとしてもいいんです」
「そうですとも」
「ええ。一冊の本でも買う気になったんですから」
「とっておきのリボンを、おかけしましょう」
「ありがとうございます」
そういうと男の人は出てゆきました。
「どういうこと?」
「さあ。何があったのかしらね」
「あの人は何も話さなかったじゃない」
「何も話さなくたって、何かがおこる事って、そんなに珍しい事じゃないわ」
お店の人は、ご機嫌で、それ以上何を言っても取り合ってはくれませんでした。
雨が降っていました。
雨の中をやってきた今夜のお客さんは、お店の中を何度か行き来すると、一度も立ち止まらずに出ていってしまいました。
お客さんが出ていってしまうまで、お店の人も何も言いませんでした。
「お客さん、すぐ出て行っちゃったね。一度も立ち止まらなかった」
「…………」
「足りないのよ」
「足りない?」
「そう。全然足りないわ」
ぼくは黙ってお店の人の話しを聞いていました。
今日来たお客さんね、私の好きなタイプの人じゃない。あ、嫌な人だとか、嫌いだとかじゃなくてね、今のところ特に好きなタイプの人じゃないって事。だから、
あの人が読みたい本がどんな本なのかって、わからない。違うか。感じられない。
たまにあるの。やっぱり雨の日とか、雪の日なんかにもね。そんなときに限って、「ここです」書店を見つけてくれて入ってきてくれるのに、何となく好きになれなくて、だから、どんな本も準備できない。
「本を増やすんですか?その……いつか」
「わからない。でも、自分でここに置きたくなる本じゃなければ置かないつもり。でも、ちょっと残念かなって、いっつも思うの。それだけ。気にしないでね」
その日は夜半まで雨が降り続いていました。
「あと、どのくらいの本棚がおけるかしら」
突然、お店の人が尋ねます。
「そうでうね……三つくらいなら……あと、本棚をきちんと並べたらもっと置ける
と思うけど」
「そのくらいかしら。じゃ、もうしばらく、ここでやっていけるわね」
「え?」
お店を開いたとき、本棚は二つしか無かったそうです。店番をしている彼女の棚と、そして、亡くなってしまった婚約者の棚。お店の名前も今とは違っていたそうです。
「意識した訳じゃなくてね。お店を開くのが予定よりかなり早かったから、あんまりお金が無くて、棚二つしか本が入れられなかったの」
本棚二つというのは、いくらなんでも少なすぎます。だから、本当に気に入った本だけしか置くことはできませんでした。
お店の人は、自分が本当に置いておきたい本を探しました。そして、もうひとつ、生きていたならきっと彼が置いておきたがっただろうと思う本を。それで、ちょうど二つの本棚――二人分の本棚がいっぱいになりました。
ずいぶんと長い間、二つだけの本棚でお店を開いていたのだそうです。
三つめの本棚が加わったのは、この街にすむ登山家が、長い登山から帰って、そして偶然、お店を訪れたときのことでした。
「気に入った本が見つからなかったようで、彼は1冊も本を買わなかった。でも、どういう訳か1週間通い続けたの。新しい本が入るでもないのに」
「好きになったんじゃないですか?あなたのこと」
「そうかもね……でも、私もその人のことを素敵な人だなと思ったわ。で、この街にも素敵な人はいるんだなと気付いたの。本当、当たり前のことだけど」
「…………」
「当たり前のこと。素敵な人は、自分の故郷だとか、そういう特別なところにだけいるわけじゃないって。結局どこにでもいるんだってね」
いつしか、「この街の登山家の本棚」ができました。三つめの本棚。あとは、簡単です。この街ですてきな人に出合うたびに、本棚がひとつずつ増えていったのです。
「ひょっとして……ぼくの本棚も作ってくれるんですか?」
「わからない。どちらにしてもまだ先のことだわ」
「まだ先のこと?」
「だって、あなたのことは、まだ何もわからないのだもの。もちろん、どんな本をおいたいいのかもね」
ひとしきり話すと、ぼくは、明日はこの街を離れるからと言い残して、「ここです」書店を後にしました。
列車は駅を離れました。お店の人がわざわざ見送りに来てくれて、ちょっとびっくりしましたけどね。
小さな街の駅前通りを通り過ぎていった人たち。たまたま通りがかっただけの人。そういった人のことが好きになって、ひとつずつ本棚が増えていったのが、「ここです」書店。
「ここ」にしかない、でも、本当は、どこにでもある筈のお店。同じように、こじんまりとした商店街や、陽射しのきれいな広場のかたすみを、どこにでもいる素敵な人たちが通り抜けてゆく時にどこにでも見つけられる本屋さん。その中で、「ここ」にあるお店。
そういったわけで、本棚が五つになったとき、「ここです」書店という名前になったのだそうです。
「またいつかね」
そういって、ぼくは、自分の街に帰ります。
そうですね。今夜、駅を降りたなら、もうちょっとだけ注意して街角みを眺めてみることにしましょう。
ひょっとしたら、ぼくのすむ街にだって、ひっそりと「ここです」書店が、お店を開いていたりするかも知れませんから。