木に教わった話

 この部屋から,一本の木が見えます。
 きっと、いつだって見えているのには違いないのですが、今日のような雨の日に限ってなんだか気になってしまうのです。
 ちょっと注意して見ていると、ときどき誰かが木の下に立っているのが見えます。傘をさしているようすなので、雨やどりではないのでしょう。
 そんなわけで、ぼくはこんなお話を考えてみました。
 お話は、ある夜のことから始まります。

「こんなところに、木があったなんてどうして、いままで気がつかなかったんだろう?」
 あきら は、そう思いました。
 このあたりは、回りに家もなくて、さみしいところです。
 あきら も、ずっと、なんてさみしいところなんだろうと思っていました。そして、最近は、さみしいところだって気にもしないで毎日この道を歩いていたんです。

「あら? こんなところに木なんてあったかしら?」
 ちょうどその翌朝、ゆき が、やっぱりその木に気付きました。
 ゆき は、まだ少しばかり薄暗い、朝早くの時間に毎日ここを歩いていたのです。どうしたわけか、ゆき も、その朝初めてこの木に気付いたのでした。

「今日もだめだったよ」
 あきら は、本を売って歩く仕事をしていました。でも、あんまり本を買ってくれるお客さんが見つからなくて、あきらはしょげかえっていたのです。
 ある夜。あきら は、木に相談してみることにしました。
 もちろん、相談といっても木が何か話してくれるはずはありません。でも、他に話す人もいなかったので、帰り道で木に話してみたのでした。

「え? なに?」
 その翌朝、ゆき が、いつものようにその木のそばを通りかかると、なんだか、声を聞いたような気がしました。
 あわててあたりを見回してみましたけれど、やっぱり誰もいません。
 それでも、なんだかとっても寂しそうな声に聞こえたので、「がんばってね」とだけ、ゆき は、つぶやいたのでした。

「……明日は、公園通りの方をまわってみようと思うんだ」
 今夜も、あきら は、木に話しかけて行きます。
 あいかわらず、お客さんは見つからないのですが、帰り道に木に話しかけていると、なんだか、「今日もだめだったよ」ばかりでは、面白くない気がしてきました。
 それに、なんだか本当に木が、自分の話を聞いていてくれるような気がしてきたのです。
 木が、「がんばってね」と言ってるような気もしてきました。それがうれしくて、あきら は、「今日もだめだったよ」のあとに、「でも……」と付け加えてみることにしました。
 歩き回るばかりじゃないと、公園で一日じゅう子どもたちと話していたこもありました。街角の本屋さんに入って、お客さんがどんな本を買っているのか眺めてみたことともありました。図書館に行って、自分の好きな本を片っ端から読んでみたこともありました。
 木に話し掛けて、「だめだったよ……でも」と話を続けるうちに、なんだか、そういったこととも役に立ちそうな気がしてきたのです。
 そして、明日は公園通りをまわってみようと、急に思い付いたのです。
 公園通りは、お店からそんなに離れているというわけでもないのに、一度も行ったことがないのに気付いたのです。

「がんばってね」
 ゆきは ちょっとだけうれしくなりました。
 この木のそばを通るたびに聞こえていた声が、少しずつ明るくなるような気がしたのです。本当のことを言うと、はっきり声が聞こえるわけでもないし、やっぱり、木から声が聞こえるというのもおかしいなとは思うのです。
 はっきりは聞こえないのですけれど、まじめそうな声を聞いたような気がして、「がんばってね」を、ゆき は、繰り返していました。
 気のせいかもしれないけれど、この木のそばを通るたびに、呼び掛けられたような気がして、それが少しずつ明るく聞こえるようになったのは、どこかできっと、いいことがあったんだろうなと、そう思います。

 いかがでしょう?
 こんなことが本当にあったのかどうか、もちろんわかりません。
 でも、なんとなく、雨の中で一本の木を見ていると、こんなお話が浮かんできたりはしませんか?

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
『木に教わった話』 by 麻野なぎ
この作品は、 クリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンス の下に提供されています。
(licensed under a CC BY-SA 4.0)

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